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20代の頃、連絡船内食堂で働いていました。今77歳。青春時代を思いだし懐かしですね✨楽しかった❗
中学・高校の修学旅行で乗ったなぁ。高校の時は大雨で列車が遅れ、函館からの乗船予定便に乗れずに次の便に乗船。海峡は大シケで大半がダウン。青森からの夜行寝台も予定便に乗れずに次の寝台列車。一般客に交じってみんなバラバラの席で上野まで。B寝台での自分の席の真向かいは若い女性で下の席はどこかのおじさん。添乗員や先生方は大変だっただろうなぁ。帰りは凪で甲板に出たりして風を受けて楽しい思い出です。
沢山の思い出や記憶を乗せた連絡船。多くのそれぞれの思いを乗せてきたでしょう。今は早く安くが今の交通。しかし不便なりの思い出が皆さんの記憶にあると思います。あの時食べた食事。あの時の会話の記憶。あの時の思い出!すべてが皆様の思い出に脳裏に焼きついてる事でしょう。本当に大事な記憶です。大事にして語る事も大事かと。大事に懐かしんでほしいです。見ず知らずの方に世話をやくのも日本人ならでは!お互いに思い出に懐かしむ姿が本当に素晴らしいです!
アラ環オヤジです。大学生冬休みに18きっぷで東京から北海道に行きました。船内発行の切符がほしくて、船内案内所でグリーン船室の切符を記念に買ったら船員さんが「いいからグリーン船室乗んなよ」って言ってくれて、本来乗れない18きっぷなのに、ゆったりグリーン船室に乗せていただきました。40年近く前の良い思い出です。もちろん羊蹄丸発行と印刷している長細い硬券のグリーン券は、今でも大切に保管しています。
素晴らしい体験をなされましたね。乗務員の素晴らしい対応ですよね。涙してしましました。歳をとってもあの時の記憶はよみがえるかと思います。素晴らしい体験を後世に伝えてほしいですね!(笑)
帰省するたびにラウンジ海峡で頂くイカ刺と酒が、自分へのご褒美だったなぁ、、、
連絡船にはギリギリ乗った世代ですが、船酔いでひどい目に遭ったのでいい思い出ではありませんけど、こうして改めて見ると色んな人の人生が詰まっていたことがわかりますね。今、青函フェリーに乗ったとしても、同じ光景は見れそうもありませんね。
今69歳です。北海道は父の生まれ故郷でもあり、小学4年生の時に乗船しました。あの升席でのんびりした記憶があります。早朝に函館の港に、着いた時は北海道に上陸したんだなと思いました。感慨深いですね。
s60に周遊券使って乗船しました。インタビュー受けられる高齢者の方々が皆お上品。
最後の連絡船に乗りました。摩周丸でした。食堂で食事てましたが雨で窓からは何も見えなくて残念でした。感慨深いぶな旅でした。
この年は、青函トンネルや瀬戸大橋開通で、北海道から本州または、四国への交通アクセスが変わった時代でしたね。
記憶に残ってる初めての乗船は中学生の修学旅行の時で行きも帰りも羊蹄丸でした。その後は家族旅行の際に連絡船を利用し国鉄最終日とJR発足日にも乗船しました。連絡船終航まで全船に乗るのは不可能でしたので最後くらいはと高校の冬休みに奮発し函館駅に電話すると連絡船の配船を教えてくれたので夜行便の2便と青森からの折返し21便で十和田丸のグリーン指定席を利用しました。連絡船連絡船定期運行最終日は平日で学校があったので室蘭からは見送りにも行けませんでしたが青函博記念運行の際には臨時4便十和田丸で青森に行き十和田丸の船内で宿泊し翌日は臨時3便羊蹄丸で函館に帰ってきました。そして青函博記念運行最終日で津軽海峡から連絡船が姿を消す本当の最終日は就職試験の帰りで函館桟橋で行われる終航式にも参加し最後の臨時4便十和田丸を見送らせていただきました。終航式の模様を報道陣に混じり最前のベストポジションで撮影した写真は東室蘭駅に転属してきた元事務長さんにあげたところ連絡船時代の船長を始めとする同僚の方々も持ってないと言われ何枚も焼き増ししてお渡しした覚えがあります。青函連絡船は単なる輸送手段ではなく小さい頃から母から聞かされてきて憧れと共に好きな船でした。廃止の運命を辿らなければ働きたかったですね。
それぞれの人生乗せて、海を渡ってたんだなあ🎉
こういう動画好き
いつも連絡船絡みありがとうございます。
乗客みなさん、情緒いっぱい。
最初の方に出て来る583系寝台電車の映像、素晴らしい!雪原を走るのが絵になるね。でもこの583系は冬にはあまり乗りたくなかった。道中の十三本木峠 (奥中山峠)付近で東北本線最高地点になるが、583系では暖房能力が不足し、岩手県十三本木峠付近で車内が急に寒くなってくる。乗り心地や車内暖房に関しては24系寝台客車の方が良かった。真冬に下り583系寝台特急「はくつる」に乗車した時、車内の寒さと横揺れの酷さに乗り物酔いしたが、青森から乗船した連絡船船内の暖かさにホッとした。海峡で揺れもしたが、583系の方が耐えられない揺れだった。
最終便の八甲田丸に乗船していました。乗船証明書が渡され今でも宝物として保管しています。また、時々メモリアルシップとなった八甲田丸に会いに秋田からそのために行きます。生まれてすぐ、小児喘息になり秋田にいるより北海道の方が空気がすんでいいとの事で、オフクロの実家である釧路に行く際に乗ったのが最初で学校入学まで釧路にいました。一番の思い出は、松前丸で”うなぎ弁当“を買って桟敷で酒盛りした事ですかな。
もうアラ還なのに、これまでもそしてこれからも、本州を出ることはないでしょう。私はタヒんでから、青函連絡船に乗るつもりです。いろいろ、楽しみです♪
昔のテレビ番組好きやなぁ
いまのテレビはダメだ感動の押し売りと余計なBGM
やっぱりむかしの60代の人ってホント歳を食ってるように思った出てる老人ほとんど昇天してるんだろうなって感じた。というか今だと青函フェリーや津軽海峡フェリーで似たようなムードは楽しめるだろうけどなにか違う気がする?
昔は画面暗転&エンドクレジットが製作著作じゃなかったNHK
洞爺丸台風は北海道を縦断し滝上町まで被害を及ぼした。函館の住民は屋根が吹き飛ばされないよう屋根にロープをかけた話まで聞いている。滝上町の芝桜も、この台風がきっかけだった。自分が思うには線路が繋がっても道路がつながらなければ本州と北海道がつながったとは言えない。
昔の日本人って座敷席好きだよね。あと、ファミリーが多い。今は椅子席の方が人気がありそうですが。
s60に周遊券使って乗船しました。インタビュー受けられる方々が皆お上品。平成年間に日本人は劣化したんだなと感じた
20代の頃、連絡船内食堂で働いていました。今77歳。青春時代を思いだし懐かしですね✨楽しかった❗
中学・高校の修学旅行で乗ったなぁ。高校の時は大雨で列車が遅れ、函館からの乗船予定便に乗れずに次の便に乗船。海峡は大シケで大半がダウン。青森からの夜行寝台も予定便に乗れずに次の寝台列車。一般客に交じってみんなバラバラの席で上野まで。B寝台での自分の席の真向かいは若い女性で下の席はどこかのおじさん。添乗員や先生方は大変だっただろうなぁ。
帰りは凪で甲板に出たりして風を受けて楽しい思い出です。
沢山の思い出や記憶を乗せた連絡船。
多くのそれぞれの思いを乗せてきたでしょう。
今は早く安くが今の交通。
しかし不便なりの思い出が皆さんの記憶にあると思います。
あの時食べた食事。
あの時の会話の記憶。
あの時の思い出!
すべてが皆様の思い出に脳裏に焼きついてる事でしょう。
本当に大事な記憶です。
大事にして語る事も大事かと。
大事に懐かしんでほしいです。
見ず知らずの方に世話をやくのも日本人ならでは!
お互いに思い出に懐かしむ姿が本当に素晴らしいです!
アラ環オヤジです。大学生冬休みに18きっぷで東京から北海道に行きました。船内発行の切符がほしくて、船内案内所でグリーン船室の切符を記念に買ったら船員さんが「いいからグリーン船室乗んなよ」って言ってくれて、本来乗れない18きっぷなのに、ゆったりグリーン船室に乗せていただきました。40年近く前の良い思い出です。もちろん羊蹄丸発行と印刷している長細い硬券のグリーン券は、今でも大切に保管しています。
素晴らしい体験をなされましたね。
乗務員の素晴らしい対応ですよね。
涙してしましました。
歳をとってもあの時の記憶はよみがえるかと思います。
素晴らしい体験を後世に伝えてほしいですね!(笑)
帰省するたびにラウンジ海峡で頂くイカ刺と酒が、自分へのご褒美だったなぁ、、、
連絡船にはギリギリ乗った世代ですが、船酔いでひどい目に遭ったのでいい思い出ではありませんけど、こうして改めて見ると色んな人の人生が詰まっていたことがわかりますね。今、青函フェリーに乗ったとしても、同じ光景は見れそうもありませんね。
今69歳です。北海道は父の生まれ故郷でもあり、小学4年生の時に乗船しました。あの升席でのんびりした記憶があります。早朝に函館の港に、着いた時は北海道に上陸したんだなと思いました。感慨深いですね。
s60に周遊券使って乗船しました。インタビュー受けられる高齢者の方々が皆お上品。
最後の連絡船に乗りました。摩周丸でした。
食堂で食事てましたが雨で窓からは何も見えなくて残念でした。
感慨深いぶな旅でした。
この年は、青函トンネルや瀬戸大橋開通で、北海道から本州または、四国への交通アクセスが変わった時代でしたね。
記憶に残ってる初めての乗船は中学生の修学旅行の時で行きも帰りも羊蹄丸でした。その後は家族旅行の際に連絡船を利用し国鉄最終日とJR発足日にも乗船しました。連絡船終航まで全船に乗るのは不可能でしたので最後くらいはと高校の冬休みに奮発し函館駅に電話すると連絡船の配船を教えてくれたので夜行便の2便と青森からの折返し21便で十和田丸のグリーン指定席を利用しました。連絡船連絡船定期運行最終日は平日で学校があったので室蘭からは見送りにも行けませんでしたが青函博記念運行の際には臨時4便十和田丸で青森に行き十和田丸の船内で宿泊し翌日は臨時3便羊蹄丸で函館に帰ってきました。そして青函博記念運行最終日で津軽海峡から連絡船が姿を消す本当の最終日は就職試験の帰りで函館桟橋で行われる終航式にも参加し最後の臨時4便十和田丸を見送らせていただきました。終航式の模様を報道陣に混じり最前のベストポジションで撮影した写真は東室蘭駅に転属してきた元事務長さんにあげたところ連絡船時代の船長を始めとする同僚の方々も持ってないと言われ何枚も焼き増ししてお渡しした覚えがあります。青函連絡船は単なる輸送手段ではなく小さい頃から母から聞かされてきて憧れと共に好きな船でした。廃止の運命を辿らなければ働きたかったですね。
それぞれの人生乗せて、海を渡ってたんだなあ🎉
こういう動画好き
いつも連絡船絡みありがとうございます。
乗客みなさん、情緒いっぱい。
最初の方に出て来る583系寝台電車の映像、素晴らしい!雪原を走るのが絵になるね。
でもこの583系は冬にはあまり乗りたくなかった。
道中の十三本木峠 (奥中山峠)付近で東北本線最高地点になるが、
583系では暖房能力が不足し、岩手県十三本木峠付近で車内が急に寒くなってくる。
乗り心地や車内暖房に関しては24系寝台客車の方が良かった。
真冬に下り583系寝台特急「はくつる」に乗車した時、車内の寒さと横揺れの酷さに乗り物酔いしたが、
青森から乗船した連絡船船内の暖かさにホッとした。
海峡で揺れもしたが、583系の方が耐えられない揺れだった。
最終便の八甲田丸に乗船していました。
乗船証明書が渡され今でも宝物として保管しています。
また、時々メモリアルシップとなった八甲田丸に会いに秋田からそのために行きます。
生まれてすぐ、小児喘息になり秋田にいるより北海道の方が空気がすんでいいとの事で、オフクロの実家である釧路に行く際に乗ったのが最初で学校入学まで釧路にいました。
一番の思い出は、松前丸で”うなぎ弁当“を買って桟敷で酒盛りした事ですかな。
もうアラ還なのに、これまでもそしてこれからも、本州を出ることはないでしょう。
私はタヒんでから、青函連絡船に乗るつもりです。
いろいろ、楽しみです♪
昔のテレビ番組好きやなぁ
いまのテレビはダメだ
感動の押し売りと余計なBGM
やっぱりむかしの60代の人ってホント歳を食ってるように思った
出てる老人ほとんど昇天してるんだろうなって感じた。
というか今だと青函フェリーや津軽海峡フェリーで似たようなムードは楽しめるだろうけどなにか違う気がする?
昔は画面暗転&エンドクレジットが製作著作じゃなかったNHK
洞爺丸台風は北海道を縦断し滝上町まで被害を及ぼした。函館の住民は屋根が吹き飛ばされないよう屋根にロープをかけた話まで聞いている。滝上町の芝桜も、この台風がきっかけだった。自分が思うには線路が繋がっても道路がつながらなければ本州と北海道がつながったとは言えない。
昔の日本人って座敷席好きだよね。あと、ファミリーが多い。今は椅子席の方が人気がありそうですが。
s60に周遊券使って乗船しました。インタビュー受けられる方々が皆お上品。平成年間に日本人は劣化したんだなと感じた